シーン1:

「杉崎先生!」
スセリが飛び込んだのは、あのテラス。
杉崎のお気に入りの場所で、彼の監督する海洋牧場が一望できる場所。
スセリは杉崎の言葉が気になった、信じた者に裏切られた事よりも何よりも。
杉崎がこのまま消えるような気がしてならなかったのだ。
菱垣研究室で聞いた色々な謎めいた話、最近頻発する事故、死者。
自分が産まれ育ったUKとは明らかに違う場所なのだ。
テラスはただ風が舞っていた。
テーブルや椅子はそのままだったが、少し薄汚れているような気がした。
そして、そこに杉崎は居なかった。
ホロノートにスセリはアクセスする、まだ杉崎の名前は残っていた。
記録すら簡単に抹消されてしまうこの閉ざされた世界に、杉崎の名前はまだあった。
冷たい風が横切る。
スセリはいつも自分が座っていた椅子に腰をかける、そしていつも杉崎のいた場所を見つめた。
『どうしました?』
ここにくるスセリにいつも杉崎はそう語りかけてくれていた。
「どうしました?」
空耳かと思ったが、杉崎が目の前にいる。
「杉崎先生?」
「そうですよ、杉崎です。どうしました」
杉崎は何事もなかったかのように、テラスへ入ってくる。右手にはティーポット、左手にはティーカップを二つ持って。
「せっかく」
杉崎はそう呟きながらカップに紅茶を注ぎスセリの前に置く。
「人が突き放したというのに、何で戻ってきたんですか」
「先生が、そのまま消えてしまいそうだったから」
「……、僕は消えませんよ。海藤瑠璃が生きてる間はね」
「海藤さんって、ガイアの声の」
「もう、お気づきでしょうが僕はここの研究員ですが、ガイアの声にも参画しています。ガイアの声といっても様々な人がいます。僕はそうですね海藤・早瀬派という事になります」
スセリはまじめな顔でそれを聞いている、杉崎はその表情を見ながら言葉を続けた。
「貴女を菱垣研究室へ送ったのは、先日言った理由の他にも理由はありました。あそこには僕と同じ早瀬教授と同じ理想を持った人がいた、スセリ君をまもってもらうには適した場所だったのですが、まさか相手も見境無しに菱垣研を襲うとは誤算でした」
杉崎はため息をつく。
「スセリ君は、まだ気づいていないでしょうけど……、あなたは鍵の一人です」
「鍵……って?」
「MVの異常増殖を押さえる先天的免疫、過1/αを持った、エテルナに限りなく近い人間という事です。ガイアの声が把握しているのは瑠璃お嬢さん、コリーンそしてスセリ、あなたです。断定できるのは三人です、まだ他にもいる可能性もありますが」
「私が人魚と?」
「ええ、ですから入学以来ずっとあなたには監視が付いてました。先日にその隠蔽工作が終わったので私のあなたの監視者としての役目は終わりました、だからあなたには私はもう不要なんです。ここに戻ってくる必要も無かったのに、戻ってこなければスセリ君は一般の学生としてこの大学ですごせたはずなのに」
杉崎は持っていたティーカップをテーブルに置いた。
「ここまで聞いたからには、もう平穏な学生生活は過ごせません。あとはスセリ君が自分で動くしかありません。私には守らなければならないものがありますから、これ以上の危険に我が身を晒すわけにはいかないのですよ」
「奥さんですね」
「ええ、彼女は普通の人ですから。僕が守ってあげなきゃいけないですからね」
「……そうですよね」
奥さんの話をするときの杉崎の表情はすごく優しい顔になる。
スセリもそれに笑顔で返す。
はしかによく似ていて、熱は出ないがけだるく、心苦しく動悸が激しくなる。
スセリのおそらく『初恋』はそこで終わった。
そしてそれよりも重大な事、自分が鍵の一人と言うこと。
今までほぼ観客だったような場所から、舞台の中央へ自らの意志ではなくいきなり立たされたような物だ。
困惑しない方がおかしい。
ただ一つだけ救いがあったとしたなら。
「いつでもここに私はいます」
杉崎の言葉だった。
それは、自分からいなくなるということはしない、会いたければ何時でもきていいという意味でもあった。
スセリのいなくなったテラスに杉崎が残っている。
「まさか情が移ってしまうとは、大失敗でしたねぇ」
冷めた紅茶を飲み干して、杉崎は席を立った。

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