滝智己には野望があった。
何の変哲もなく、成績は中の上、見た目は悪くないが絶世の美女とか、ミストライデントという訳でもない。
いたって普通の、生真面目なのが玉にきずのごくごくありきたりの19才。
もっとも、このオリュンポスに置いて、であって、外界……もとい、国の大学に戻れば十分優秀この上ない生徒なのであるが。
ともかく、周囲環境に置いては普通のこの19才の娘には、大きな野望があった。
それは。
(早瀬研究所に足繁く通い、海洋文化学の勉強につとめ、あわよくば早瀬研究所に拾って貰う……てか、拾わせる!)
古代から現在に至るまでの海洋文化を記載した、海洋文化歴史書を胸に抱きしめたまま、握り拳を前に突き出す。
と、前から歩いてきた学生が、あわてて横によけた。
殴られると勘違いしたのか、それとも、智己の行動を奇異と感じたのかは言わぬが花である。
高校時代に声楽をやっており、一時はその道も考えた彼女が、いかなる理由と運命の悪戯あってこのオリュンポスにいるのかは、たっぷり小説一冊分のボリュームがあるので割愛するが。
ともかく、智己は機能的設計とやらにより、似たような景色が続く構内を、迷うことなく、いや、自信に満ちあふれた足取りで早瀬研究室へと歩いていく。
大学にせっかく入学したのだし、第一線で研究している研究者が掃いて捨てる程いるこのオリュンポス。
教えが請えるなら、教えて貰わなければ、損というものである。
第一、智己は奨学生である。
大学の職員になれば大幅に返済を免除してもらえる、というのもあるが、どうせなら若くて気鋭で政治力に長けた教授に師事して貰う方がいい。
せっかく卒業できても、そこで師事してもらった教授が定年退官などとなれば、未来はどちらへ?人生設計立て直し?の面倒が襲いかかって来るというものだ。
それぐらいなら、打算含みといわれようが何であろうが、安泰な未来の為に今から努力するのが一番である。
スキップするような軽やかな足取りで通路をひたすすむ。
途中でまだ中学生ぐらいの少年とすれ違い、挨拶を交わす。
年齢無法地帯大学。能力さえあればどこにでも潜り込めるという噂はあながち嘘ではない。
(政治力に長けた渋めの教授に手込めにされるうぶな新入生……はっ、夏コミのネタになるわ☆)
ジャンルはもちろん「や・お・い」だ。
もっともオリュンポスに夏コミがあるかどうかは疑わしいが。なぁに、今の時代オンライン。いわゆるネットでもやおい同人誌の通販が可能なのだ。ならばオリュンポスに夏コミの一つや二つ、なくてどうする!というものだ。
(どうせなら、少年はモチ美少年ね。ちょっと暗めの過去を持つ天才美少年と、それを手込めにする教授……やっぱり早瀬教授のような攻めタイプでなきゃ☆)
生真面目な学生生活とはかけ離れた妄想をつづけながら、歩く。
政治力に長けた、と気鋭はともかく、渋めという評価にはおそらくオリュンポスの大半の人間が首を傾げるだろうが。
智己の目には早瀬は「そう」写ってるのだし、やおい少女……もとい腐女子の思いこみは例え全知全能の神ゼウスでも、なまなかな覚悟では変更させられない。
閑話休題。
ともかく、本を抱いたまま、研究室の扉をノックする。
智己の研究テーマは「大陸文化と海洋文化の比較」である。
基本は比較文化論なのだが、場所が場所だけに、海洋文化びいきになるのは否めない。
だから、腐女子的な意図はもちろんのこと、本分である学生としても、早瀬の中国古代海洋文明についてのフィールドワークには関心が高くなる。
先輩などをさがせば、早瀬のフィールドワークについていった人物も見つかるだろうし。
もちろん、早瀬を初めとした海洋文化学学者の論文類……いわゆる紀要等を読み勧めるのが中心になるのだが。
紀要位、図書館やネット検索で手にはいるが、わざわざ研究室に借りに行く処に意味がある。
研究室にいけば、顔を覚えてもらえる。あわよくば早瀬教授の目に留まるかもしれない。
(やあ、熱心な学生だね。おや、俺の論文を読んでいるのか。照れるなぁ。君も海洋文化に興味があるのか)
(はい、教授の論文はすべて読ませていただいてます。フィールドワークにも行きたいなぁ。と思ってます)
……以下、妄想十五分。
智己は頭の中で、宿命のウェディングベルをならすか、それとも優秀な教授とそれを支える美人助手の永遠のパートナーで妄想を終わらせるか、二秒迷った末、「検討中」と未来予想図に書き込んで、扉をノックした。
顔を覚えた。しかし、まだ名前をしらない早瀬研究室の秘書の女性が笑顔で出迎えてくれた。
どうやらこちらの事を、覚えてくれたようだ。しめしめ。である。
「早瀬教授……は?」
「今日は教授会ですね。もうすぐ戻ってくると思いますけど。論文の査読があるから時間がとれるかどうかは」
そうですか。としおらしげに言って見せる。
ロスジャルディン島の海底遺跡の時のフィールドワークの事を聞こうとおもったのだ。
この間の学生有志でおこなった、清掃兼フィールドワークと、早瀬の様な一線の研究者のフィールドワークでは、線香花火と打ち上げ花火ぐらい規模も内容も違うだろうと期待していたのだが。
(――あれ?)
海底遺跡?ロスジャルディン島の海底遺跡?
何かが、引っかかった。
そう、早瀬の論文にはそれに関する研究論文があまりにも少なすぎた。
違う。
研究論文の本数ではない。一本一本を上げればおかしいところは何もない。
しかし、早瀬に対する直前リサーチとして一気に頭に詰め込んだモノを今、冷静に照らし合わせるとかすかな違和感があった。
頭のどこかがうずいた。
回りくどい、早瀬らしくない焦点をぼかしたような外殻ばかり詳細な論文。
張りぼての用に、論文という形を整え、綿密な飾りをほどこしながらも、どこか空虚な内容。
それはまるで、早瀬は意図的に何かを隠そうとしているようで。
隠している――何を?
(人魚とか……まさかね)
人魚文明、ファンタジーとしては美しいが現実にありうるのだろうか。
――まさかね。
もう一度つぶやいた。しかし、学内の情勢は常に一定の方向へ進むときまっているのだ。
そう。ありえない、と誰もが思う事態が、一番ありうるのだと。
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