トライデントUNにはいくつもの側面がある。
といえば、外部の人間は首をひねるしかないだろう。
外部の人間にとっては海上学術都市程度の認識しかないなのだから。
しかし、どの社会においても、またどんなに型にはめようとしても、視点を一つ変えればすべてが変わり、子供がけ飛ばしたおもちゃ箱のように、型からパーツがはずれては飛び散る。
人魚、変死体、研究、イルカ、妙な教授達、トライデント。
単語の一つ一つは簡易に説明できるものも、組合わされば複雑怪奇な絵図を描きだす。
だが、そんな場所にも朝は全く平等に、そう、無慈悲なまでに正確にやってくるのだ。
スセリ・シンクレアはベッドの中で丸まるのを辞め、体を起こして大きくのびをした。
人魚が海流に乗ってどこかへ行く可能性……。
杉崎によって曖昧な部分すべてをそぎ落とされ、否定された可能性にため息をつく。
海洋牧場のカメラ。人魚の姿。
幻や、海面を通して差し込んできた光と影の芸術だと笑って済ませることが出来ればどれほど楽だっただろう。
否、楽な筈はない。仮に光と影の悪戯だとしても、それを検証し、科学的に「ありえない」と証明する作業に変わるだけだ。
「ある」という証明か「ありえない」という証明か。
ベッドに腰掛けたまま、枕の横に積み上げられた辞書ほどの分厚さがある書物を取り上げる。
人魚に興味をひかれ、人魚の事を調べたくて菱垣研究室に入ったのだが……。
(やめよう。今は予習だけにうちこまなきゃだめだわ)
本をひろげ、愛用のメモを本の上に置き、まだ目覚めきっていない頭を振って、昨日の疑問点に残らず解答が出ている事を確認していく。
ボールペンを片手にメモにコメントを書き入れる。いたずらにペンを回したり、考えに詰まるたびに隅に意味をなさない幾何学模様をかいたり……という、普通の学生らしいことは、しない。
ただ黙々と、確実に。そう、まるで戦場の兵士が自らの武器を整備し、自らの命の安全性を高めるかのように真剣で、刹那的である。
メモを確認しおえると、テーブルの上の一枚の紙を引き寄せた。菱垣研究室の自作の見取り図である。
研究室の中ではトップ五指に入り、どこの研究グループにも、あらゆる学科コースにも分類されない異形の研究室。
そこはその「ポリシー」にふさわしく、混沌曖昧としていて、誰一人として研究室のどこに何が有るのかを完全に把握できてはいない。高速ガスクロマトグラフ装置や、遠心分離器など頻繁に使う装置はともかく、だ。
だから、自作した。
知りうる限りの研究室の備品の移動が書き記されている。
衛星を使って戦場を詳細に移した、軍事用の予定戦場の写真のように、それは精密で多くの情報に満ちている。
――どこにその必要があるのだろう。
まだたった14才で、親に甘え、反抗することが許される年なのに。
周りはそういうだろう。しかし、スセリの世界に「その言葉」は存在しない。
大人びた言動、獲物を狙う猫科の獣のように鋭い瞳で、律動的に歩いてきて、一切の無駄なく行動を終えては去っていく。
だれもがとまどう、分厚く専門的すぎる書物にもひるまずに手を伸ばし、『大英帝国の重戦車』と影でささやかれ、奇異と好機の瞳で見られていたとしても。
その視線はスセリには届かない。否、届いていても見返す事ができない。
唇が考えを追うように小さく動く。しかし声はでない。
すべての予習が終わり、隙なく精神の武装を終えたころ、ようやく朝日が海の波に乱反射しながらスセリの私室に訪れた。
瞬間、本を閉じて枕元に積み重ねる。
本来ならスセリは小綺麗にする体質である。本も本棚になおしたいところだが、すでに本棚は本人の精神武装と同じく、まったく隙なく専門書で埋め尽くされている。
クローゼットの中身も、年齢にしては遊びや嗜好というものがほとんど無視された品揃えである。
洒落た服はもっていないのだ。そもそも似合いもしない、と考えてるのだ。
着てみることを試した事はないので、他人の評価は知らない。否、いつもと違う事によって人に注目されるのが怖いだけなのかもしれない。人に対するのが苦手なのだから。自分は出来るだけ他人に良く思われたい。今は少なくとも菱垣研究室では「悪くは思われていない」筈だ。いつもと違う行動をして、わざわざ自分からその評価をぐらつかせる勇気はない。
時間をかけて、几帳面に身支度をする。
いつものように外周通路を歩いて、研究室へ向かう。
「……おはようございます」
消え入りそうになる声を何とか奮い立たせ、うつむきがちに挨拶をする。
と、研究に入る前のティータイムを実施していた研究員たちが、かすかに苦笑しながら挨拶を返してくれた。
仲良くなりたい。しかし、どうすれば良いのかわからない。
だからせめてこの研究室に「必要」とされるポジションを確立したい。
心の奥底で、自分がおずおずとつぶやいている。
その声をむりやり意識外に追い出して、映像を分析する為のパソコンに電源を入れて、画像解析ソフトを起動する。
人魚の事を調べたい。
誰も知らない人魚の事を。誰も知らないことを知っていれば、誰かが「知識」を必要としてくれる。
(でも……)
調べる、といっても何を調べるというのだろう。
生態系か、その遺伝子的な仕組みか、存在確率か、知性レベルか……それとも……心か。
(心?)
そもそも、何故人魚はこのトライデントに現れたのだろう。
そしてどうして……、こんな騒ぎになっているのだろう。
もし、人魚が未知の存在だとして……その知性は人間とコミュニケーションがとれるのだろうか。イルカと同じように?
――イルカ。
ふと、パソコンを操作する手を止めた。
いつだったか、人間には無害であるウィルスがイルカに影響を及ぼして、病気にしてしまったという記事がトラコの新聞にあった。
それと同じように、人魚には無害なウィルスが、人間に害を及ぼす危険性があるとしたら???
だとしたら、トライデントは、不審な行動をちらつかせ始めた教授会は……?
そして自分は……。
――どう動く?
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