プロローグ

午前9時30分……日曜日。
オンタイマーのセットされたdbスピーカーからクラッシックが流れる。
「……う」
ベッドの中から手を伸ばし、器用にシートコントローラーを叩くと音楽はフェイドアウトしていく。
セミダブルのベッドの中には男女がいた。
今、指でシートコントローラーを叩いたのが桝家春海(ますや はるみ)であり、その横に寝ているのは春海の彼女である遠野秋桜(とおの あきお)だった。
彼らの出会いは2年前の『実習船にしかぜ遭難事故』からになる。
その間にも色々とあったが後述することとしよう。
「日曜日なのに……」
春海はベッドの中で大欠伸をする、一度起きてしまうと再び寝付けない性格なのだ。
それに対して秋桜の方は、一度寝付くと脳が満足するまで寝ている。
春海はそっと彼女の顔にかかる髪の毛をはらってやる、秋桜は海洋大学ではめずらしい超の付くロングヘアだった。大学とはいえ、基本的に活動的な大学である事から、髪の毛を伸ばす女子は少ない。伸ばしてもせいぜいセミロング程度である。
秋桜は入学したときから目立っていた、身長は170と少しで大きな笑い声と屈託のない笑顔ですぐに人気者になった。それでいて物事に打ち込むその姿は凛として誰も近づけない雰囲気がある。
ついたあだ名は『ラ・ピュセル』、ジャンヌ・ダルクというわけだ。
でも彼女の普段の姿を知る者は1人しかいない。
桝家春海は海洋大学の3年生、秋桜は春海の2歳上で5年生。
そして秋桜は明日から本格的な外洋実習に入る。
4年次に行われる基礎実習で約2週間、5年次の外洋実習になると1ヶ月〜2ヶ月という長期実習になる。
春海は秋桜の髪に触れる、それをゆっくりと指で撫でる。
秋桜の寝ている姿はいつも同じだった。
シルクの大きめのブラウスが秋桜の寝間着。
母親の胎内にいる産まれる前の胎児の様な姿、足と手をまるめてうずくまるように寝ている。
これは2年間まったく一緒だった。
「……ん」
秋桜の目が少しずつ開く。
「おはよ、はるちゃん」

「おはよ、日曜日なのにオンタイマーかけたの秋桜さん?」
「明日から実習始まるから、余目君たちと必要な物買いに行く約束してるのよ」
「何時?」
「11時にニホンバシカメラ前に集合、そのあと昼食会やって買い物して一旦帰って、研究室の壮行会にでて……ほとんど寝ないで出発ね」
「じゃあもう時間ないじゃない? 準備しなきゃ」
「自分は昼食会までパス、午後の買い物から合流の予定」
「じゃあなんでこんな早くに目覚ましかけるの」
「きまってるじゃない」
「?」
「はるちゃんをできるだけ長く見てたいから」
そう言うと秋桜は春海を抱きしめて軽くキスをする。小鳥がついばむような軽いキスを何度か繰り返したあとに。
「でも、こうやって改めて見ると本当にはるちゃんって女の子みたいだね」
「19にもなってまだ言われるのはちょっとツライとこだね」
「でも本当に初めて会ったときは女の子だと思ったんだもん」
「男だって証明はこの2年間でさんざんしたつもりだけど?」
「うん、何度も確かめたね。その度に男の子だって感じさせてもらったね」
秋桜は春海の上に覆い被さる、秋桜の両手が春海の顔の両脇にある。
「昨日までは男だったけど、もしかしたら今日は暖かいから女の子かもしれない」
「僕はトミオじゃないし、生まれてこの方、男しかやったことない」
「あ、ほんとだ」
「つままないの」
秋桜のいたずらが成功した子供の笑顔に、あの大学での大人の雰囲気はない。
ふと春海が秋桜の頬に触れる。
「……ん」
秋桜が目を閉じる。
「顔、触られるの嫌いだったっけ?」
「好きな男に触られて、嫌な気のする女なんてこの世にいないと思うわ」
そう言うと、秋桜は再び春海に口づけした。

2日後。

春海は久しぶりに一人で目を覚ました。
いつもの通り、授業の変更がないか大学のネットで情報をみて朝食代わりのベイシックを喉に流し込む。
「(そう言えば、ベイシック飲むのも久しぶりだな……)」
秋桜は朝食にうるさく、ちゃんとした食事じゃないと朝が来ないと言うタイプだった。春海はどちらかというと必要な栄養がとれればそれで満足していた。
春海は時計に目をやりながらナップザックを背負い玄関を出た。
『国際海洋大学入り口、お降りの際には足下にご注意下さい』
モノレールの駅を降りる。
海洋大学の教室には番号があり、そこの教室ではその授業しか行われない。教える先生は教科書の担当箇所で替わったりする、1単元90分の授業が午前中2単元。
午後も2〜4単元授業があり、授業終了と共に2種類の学生に分かれる。
ひとつが、各研究室に遊びに行く生徒と、まっすぐ帰る生徒だ。
クラブなどもあるが学校外での活動が主で春海は参加してない。
「おはようございます」
春海が行ったのは海棲ほ乳類の研究を主にやってるミスワキ研究室。
室長のミスワキは面白い先生で有名であり、研究室も小さいけどよく同じ授業をとっている友人と共に春海はいりたびっている。
「はるみちゃーん、今日もミニマム〜」
後輩の女の子に頭を撫でられる。
春海の身長は158センチ、後輩の女の子は170もある。
「あまり僕を玩具にしないで下さい」
「だって、はるみちゃん。女の子みたいでかわいいんだもん、あたしもほしかったなこんなヌイグルミ」
産まれてこの方、同じセリフは幼稚園入学前から聞いていた。慣れっこでありそのかわし方も判っている。
こういうときは少しムキになると相手は喜ぶ。
春海はそう演じた。
しばらくすると。
『キューココッコ』
室内音響から声が聞こえる、ミスワキ研究室の海洋牧場カウボーイでイルカの松本君。
海洋牧場が見える窓に春海が手をおくと、そこをトントン叩いてくれる。話しかけると答えてもくれる。春海の一番のお気に入りだ。
「そーいえば、そろそろ学校祭の時期だねぇ」
たのしそうに後輩の女の子達が言う。
「ああ『学園祭争奪戦』から1年ですか、はやいですねぇ〜」
ミスワキ先生はのんびりとお茶をすすってる。
「あのジェンヌ様のセリフ『春海はあたしのだ、手を出すな!』ですね」
1年前の学園祭の後夜祭で、『春海』が『男の子』に告白された。それを知った秋桜がその学生を蹴り飛ばして、言ったセリフがさきほどのである。
この事を機に、ただでさえも有名人だった秋桜がさらに有名になり。それまでアイアンメイデンとも言われていた秋桜に彼氏(一部、彼女と思っていた人間多数)が出来たと大騒ぎになった。
ジャンヌというのは秋桜のニックネームで、他にも後輩からはラ・ピュセルとか言われてる。学校にいるときの秋桜の性格を見事に表している、女子にとってはあこがれの先輩の一人でもあった。
「そう言えば、ジャンヌ様は一昨日から実習でしょ?」
「うん」
「寂しくなるね、はるみちゃん」
意地悪そうに言っている。
「え〜、ジャンヌ様の色黒になって筋肉ついた腕なんてみたくな〜い。はるみちゃん、ジャンヌ様の替わりに実習行ってかわってきてよ〜」
後ろから女子生徒が春海に抱きついて、泣き声で頼み込む。
もちろん冗談だ。
こんな感じで一日を過ごす、そして秋桜が来て一緒に帰るのがいつもの日課だった。
でも昨日から秋桜は迎えには来ない。

そんな生活が1週間続いたある日。

帰宅した春海の部屋のPCにメールのランプがついていた。
差出人は秋桜。
1週間も連絡しない彼女を心配しないのかとか、実習中にあったいろんな事が山ほど書いてあった。
春海も何ともない日頃の事を書いて送り返す。
段々とそれが日課になり、遠い距離にいてもお互いの存在を確認し、心を通わせる手段となった。
これから紹介するのは、その恋人同士の膨大なメールでのやりとりのほんの一部である。
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